息子ではないけれど。
インドには古くから、人間の一生を四つに分けるという考えがあるそうです。
「学生期」(学節・礼節を見につけ、体を鍛え、社会に出る準備をする期間) 「家住期」(仕事を持ち、結婚をし、子供を持ち育て、社会に貢献する期間) 「林住期」(社会的役割を終え、一人自然に身を置きながら、自己の内面と向き合う期間) 「遊行期」(後悔や未練から解き放たれ、自分の死を、心静かに待つ期間)
私の母は、現在74才。
人生を仮に100年とするならば、まさに「林住期」から「遊行期」に差し掛かる時期にあり、これからだんだんと、死を迎える準備に入る頃なのですね。
そんな矢先、思いがけない両耳の【難聴】と、重い【頭鳴】に見舞われたことは、母にとっても家族にとっても、しんどい出来事と言えば、しんどい出来事です。
加えて、”一人暮らし”、という環境もありますからね。
それでも、最近、母を見ていて思うのですが、人間には、それ相応の適応力というものが備わっているようで、時間と供に、自分の置かれた状況を、だんだんと受け入れるようになるものですね。
昨年の晩秋、どんどん耳が聞こえなくなり、周囲とのコミュニケーションが取れなくなった当初は、本当に精神的に追い詰められて、いろんなことに無気力になりかけた母でしたが、今では、なんだかんだと、その事実を、かなりの程度まで受け入れられるようになりました。
【頭鳴】の方はというと、こちらはまだまだダメなようで、日なが一日、ゴーゴーと鳴り続ける爆音に、気持も体も追いついていかないようですが、おそらく、そっちに気を取られているせいもあってか(?)、聴こえない、ということへの不安とストレスについては、随分和らいだようなのです。
そして、たまに【頭鳴】が止む時間が訪れると、なんでも、そこに至福の喜びを感じるのだそうです。
たとえ、耳が聴こえなくても、【頭鳴】が止んで、しばしの静寂が訪れた瞬間、たまらなく幸せな気持になって、どういうわけだか、自転車に乗って、あちこち走り回りたくなるのだそうです^^;(やめてケロ~!)。
私には、母が毎日どんなうるさい音と戦っているのか、それは全くわかりません。おそらく、相当な辛さなんじゃないかと想像します。
それでも、そうやって、母なりに、なんとか乗り越えようと堪えている姿を見ると、人間は、泣いたり当たったり、感情を吐き出すことで、だんだんと強くなっていくものなんだと実感します。
と同時に、何を幸せと感じ、何を不満と感じるかは、当たり前のことですが、自分の心が決めることなんですよね。
私なんて、つい気を許せば、足りないものや、失くしたものばかりに目が行って、グチをこぼしたくなってしまいますが、今持っているものへの感謝とか喜びを、今一度思い起こすとき、人はそこに、ささやかながら、幸せをみつけられるものなんじゃないかと、そんなことを思うのです。
なんて。
もっともらしいことを言っている私ですが、実を言いますと、母と面と向かうと、これがなかなか、優しい言葉の一つが、どうもね、かけられないのであります。
なんというかその、ついつい、そっけなくなってしまいまして。
まぁ、言ってみれば、娘であって、息子のような、そんな感じなのでありましょうか。
それでも、何をするでもなく、一緒にご飯を食べたり、筆談したりすることが、多分、母にとっては励みになるんじゃないかと思いますので、花粉が鎮まる頃にでも、また帰れたらと思っています。
また一週間、元気に頑張りましょう^-^♪
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