無駄の意味。
ある、新聞コラムを読んで。
『駄』とは、馬に積んだ荷物のことで、左右振り分けて取り付けるため、2つで一駄と言うそうです。目方は片側最大18貫。つまりは一駄で36貫(135キロ)。凡そ、成人男性二人分というところでしょうか。
「荷をつけて、運んで行けば駄賃になる」
「荷をつけない空馬ならば、いくら歩いても稼ぎは無し(それでも馬は腹をすかせて飯を食う・・というところから、【無駄飯】という言葉が生まれたそうで)」
「駄賃とは、馬が運ぶ荷物の運び賃」
昔の人は、荷物がなかったら、”空の籠でもつけていけ”、”道に落ちているもの、何でもいいから運んでいけ”、”落ちているもの、なければ盗んででも持って行け”と言い、空馬を曳くことを大変恥じたということです。
とは言え、本当に盗んだら、泥棒になってしまうので、どうしても運ぶものがないときは、行きがけに土手にぶら下がっている南瓜を蹴飛ばして道の方に転がし、帰りにそれを拾って運んだ、なんてこともあったらしいです。
【無駄飯】のほかに、”無駄”のつく言葉と言えば。
【無駄骨】、【無駄口】、【無駄話】、【無駄働き】、【無駄遣い】。
荷物をつけない往来は、馬にとっては、ありがたい話だったに違いありませんが、”空馬を曳くような人生だけは送るな”という、先人の教えもあるようで、使う側と使われる側の都合は、いつの時代も、なかなか一致しないものですね。
さて、自分のこれまでを思い起こしてみると。
無駄に走って、無駄に転んで、無駄に笑って、無駄に迷って。
”空馬”疾走の往来を、数え切れないくらい繰り返し、その度に、自分の運ぶべき大切な荷物を、どこか知らない場所へと、置いて来てしまったような気もします。
でも。
「道すがら
切符と引き換え
置いてきた
荷物の中身は
何だろう」 (岩橋さんのブログより:私の最も好きな、岩橋一句です)
時には、荷物を下ろして”無駄”にする。 そういう潔さも必要なのかもしれません。
おそらく、一つの人生を貫いていく上で、そうした”無駄”と思える時間こそが、力となり、希望となり、後から振り返ったとき、最も輝いて自分の心に蘇る、そういうものなのかもしれませんね。
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