旅路の彩り。
☆無量寺住職 青山俊董尼のコラムより。
『 花無心にして
蝶を招き
蝶無心にして
花を尋ぬ
花開くとき蝶来たり
蝶来るとき花開く
吾もまた人を知らず
人もまた吾を知らず
知らずして
帝則に従う。(良寛)
花咲き始めるとき、蝶や蜜蜂もまた目を覚まし、本能に導かれるままに、花びらに埋もれて蜜を吸い、その体につけた花粉を、次の花びらへと運んでいく。
このとき、蝶も花も蜜蜂も、互いに無心のまま。
無心のまま、蜜をごちそうになり、無心のまま、花粉の媒介の手伝いをし、「してやった」「してもらった」などと思う心はどこにもなく、無心に天地の法則(帝則)にかない、みごとなハーモニーを奏でていく。
人間はつい、目の前の出来事を、自分の物差しではかろうとしてしまうけれど、天地に存在する一切のもの、そして、その中に生かされている、全ての命と肉体が、ひとつとして外れることなく、互いにかかわりあい、たすけあい、調和しあって存在している。
そういう天地の中での働きを、仏教の世界では、古来、網の目にたとえる。
網の目の一つ一つに宝珠が輝き、すべての宝珠が、互いに相映じあって、その光を増し、更には、一つをつまみあげると、全部がひとつながりになっていて、この世界のすべてのことは、一つの背景に一切の働きがあり、一切が総力を上げて、一つを支える。
「網珠相対す」(『従容録』弟四十則「雲門白黒(うんもんびゃっこく)」より)
重々無尽にかかわりあう天地には、はみ出すものは一つもなく、不都合なものも一つもなく、例外なくすべてをつつみこんで障りなく輝きあっている。
これを人生にあてはめるなら、寒くてよし、暑くてよし、雨もよし、晴れもよし。病むことも、失敗も成功も、愛する日も、憎しみに変る日も、損も得も、それまたよし。』
・・・・なるほど。
どんなにもがいてみたところで、人間一人のできること、人間一人の知るところ、それらは全て、天地の網の目の中でのことであって、自分ひとりでやった気になっていることも、辿ればそのどれもが、すぐそばにいるあの人や、今はまだ知らない遠くの誰かに支えられている。
そしてまた、生きているうちに起こる、悲しいことも、苦しいことも、理不尽なことも、それらはみな、生まれ落ちた網の目の中で、一つでも多くの輝きに出会うため、自分自身の輝きを知るため。
人間の求める一番の幸せとは、”今ここに、なぜ自分が生かされているのか。”
”その意味を知る”、そういうことなのかもしれませんね。
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