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2008年11月17日

”さようなら”

月曜日から、いきなり別れの挨拶・・・(^-^;)?

「もう 終わりだね・・・君が小さく見える・・・」

と、小田さんも歌っているように、この”さようなら”

同じ別れの言葉でも、”ではまた” ”ごきげんよう” ”お暇します”などと違って、その裏側に、”もう会えないけれど・・・”という、覚悟のニュアンスを感じてしまうのは、多分、私だけではないでしょう。

語源は、”左様ならば”。

もともとは ”それでは” ”では” ”じゃあ”などと同様、話題を変えるときの言葉のひとつであり、”さようならば、これで失礼します”のように、後ろに続く言葉が省略され、独立して”挨拶”になったわけですが、時代が進むに連れ、ある種無常観さえも含んだ、”強い別れ”の意味を持つようになっていった、その経緯はどこにあるのか。

ちょっとおもしろいなと思うのです。

というのも、昭和の20年代、30年代の映画を見ていると、この”さようなら”が、極当たり前に、日常の別れの挨拶として使われているからです。

街で知り合いとばったり出くわし、しばしの立ち話。

別れ際に、”それじゃ、さよなら”

学校の帰り道、子供たちが友達同士で手を振りながら ”さようなら、また明日”

こういう風な場面で使われる時、この言葉も、何かとても清清しい響きがして、紛れも無く、”美しい日本語の一つ”だという気がしてきます。

以前、実家の母が、友人・知人に宛てた手紙の最後に、”さようなら”と書いているの見たことがあります。

私の感覚からすると、手紙の最後に ”さようなら”

とは、なんだか大げさで、もうコレきり・・というような含みが感じられて、受け取った人はどう思うだろう・・と、少々心配してしまいましたが、母の世代にとっては、”さようなら” も ”それではまた”と同じように、極めて気軽な挨拶の一つなのでしょうね。

”今日は” ”今晩は” 

これらも同様に、後ろに続く言葉を省略したものが挨拶として定着して行ったわけですが、最後まで言い切らない、受け取る側が”察する”余韻・余地を残す曖昧さは、いかにも日本人らしいと言えるのでしょう。

最近では、これがさらに進んで ”どうも”とか”じゃあ”・・などと、ついつい省略し過ぎた言葉でお茶を濁してしまう。

そんな場面も多い私ですが、せめて挨拶ぐらいは、きちんと言える人間でありたいですね。

古い日本の映画には、意外な驚きや発見があり、まだまだ見たい作品がたくさんあって楽しみです。

また一週間元気に過ごしましょう~(^-^)

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