不完全の美。
白洲正子さんの骨董に注ぐ愛情。
それらについて書かれた本を読んでいると、とても共感できて興味深い。
日本人が骨董に見ているもの・・
それは、”人間そのもの”だという。
若いものは老い、新しいものは古くなり、形あるものは滅びる。
日常生活から生まれた、『もののあはれ』の思想。
この如何ともし難い自然の掟を、骨董にも見ているからこそ、そばに置き、手にし、愛でることで、自分なりの味わいを育てて行く。
それが、日本人が長きに渡って培ってきた、骨董との付き合い方なのだという。
”あまりにも完璧なものはいいに決まっているが、それも過ぎると情緒に欠ける。一点の非の打ち所のない美人を毎日眺めているとつまらなくなってくるようなもの”
”よい人生を送った人たちは、顔の出来不出来に拘らず、実に美しい表情をしている”
骨董も、まさにこれと同じだという。
(あぁ、なんて素晴らしい!骨董・・・それは、私の勇気(笑)!!)
日本の骨董屋についての話もまたおもしろい。
欧米の古美術オークションなどと違って、骨董屋の骨董は、商品であって、商品でない。値段があって、値段のない世界。
”お金がなくても、どうしても欲しいという人は、目の色だけ見てわかるから『出世払いでよおござんす』ということにもなるし、骨董が好きでもないくせに、えばっているやつには、高い値段で売りつけたりする。そういうやつに限って高く買ったと自慢するので、まったく悪いことをしているわけでもない”
そんな風に、日本の骨董屋は、ファジーなところがあるから、鍛えられ、目を開いて行けるのだという。
もう一つ、”贋物”について。
どんな一流の骨董屋であっても、お蔵に入れば、贋物は、山と積んであるらしい。
”それらはいずれも、若い番頭さんや、ぽっと出の小僧さんたちが、何かの拍子にまちがって買ってしまったもので、いやでも目に付くところに並べてあるから、彼らは、その前を通るごとに、無言の叱責を受けることになる。それは、主人から直接怒られるより、ずっと辛いらしい・・・”
一方、
”もしこの世から、こうした贋物がなくなったら、私たちは、贋物によって眼を鍛えることができなくなり、骨董を買うおもしろさも半減するだろう”
なるほど~・・・。
それもまさに、人生。
生きていくことに、贋物も本物もないけれど、”足りないもの” ”見えないもの” ”届かないもの”、そういうものがなくなって、”全てが足り、見え、届いてしまったら”、生きることのおもしろさも半減する
・・・そう置き換えられるのかな。
最後に、”掘り出し物”について。
”骨董は、高いお金を出せば、それ相応のものを手にすることはできるが、そうした意味での掘り出し物を狙ったところで、少しも面白くない。”
”まずは自分の好きなものをみつけ、買い、愛情を持って、じっくりつきあうこと。”
”本当の『掘り出しもの』とは、物に即して、自分の眼を、心を、掘り出すこと。”
うーん、胸に沁みます。
人生まだまだこれからです(当たり前だヨ・・)。
以上は、『白洲正子の世界』(コロナ・ブックス)から。
お時間ありましたら、是非、読んでみてくださいね(^-^)。
どうぞ良い週末を♪
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