右脳的暗譜。
ワタクシ・・・
こう見えて(?)、幼い頃、10年ほどクラシックピアノを習っておりました。
その後、30年近いブランク(数字詳細、突っ込み不可ヨ)。
弾き語りをやりたいがために、衰え行く脳細胞に鞭打って、そのピアノを再開したわけですが、当時の自分を思い起こし、”なるほど、そういうことだったのか”と、この頃改めて思うことがあります。
それは・・・暗譜。
先生について習っていた頃、何より苦手で、避けたかった。
それが暗譜。
どちらかと言うと、”初見”が効いたこともあってか、ある程度弾ける様になると、やがてその曲自体に飽きてしまい、”読み込み”、”弾きこみ”、”暗記”する、という、根気のいる地道な作業に入る前に、気づけば、次々、新しい曲へと興味が移っていた。
そんな自分を思い出します。
それが証拠に、習っていた10年のうち、暗譜必須の発表会には、後にも先にも、たったの一度しか出たことがない。
その当時から、面倒なことを避けて通る術を得ていたのかと思うと、我ながら情けなくなります。
それで。
それが今の自分とどう繋がっているのか、という話ですが、今やっている弾き語り。
これは、自分で曲を作ります。
作りますが、私の場合、基本的に、楽譜も、コード譜も、歌詞カードも起こさないため、必然的に、歌うときには、目の前に何も置きません(なんか、こうして書くと、ものすごく自慢げに聞えますが(涙汗)、決して、そういうことではないのです)。
これって、一見暗譜のようにも見えますが・・
見えますが・・
しかしこれは、暗譜ではない、と思うのです。
暗譜とは、客観的に、文字や音符に書かれたものを、まずは視覚的に捉え、それを理解し、暗記し、自分のものに変えていく。
そうしたいくつもの地道な工程を経て、体の隅々まで叩き込んでいく。
私の場合、音も言葉も、その発端は全て自分の中にあり、それを一度も”客観的な形に変えることなく”、自分の中だけで記憶している。
いわゆる自己流・自己完結、なのですよね。
これって。
何かが決定的に欠けている・・ような気がするのです。
この課題については、もう随分前から自分でも気づいておりまして、日記にも何度か触れたことがありますが、それ以来、何も対策は講じていない、というのが現状です(汗)。
それなりに増えていく曲数。
反比例して減って行く脳細胞。
いくら自分の曲とは言え、もう少し、客観的、視覚的な方法で、自分の中に刻み込んでおかないと、いずれは行き詰ってしまうのではないか。
そうした不安に駆られます。
ポーランドのピアニスト、ルービンシュタインは、
『弾きながら、私は心の中で、楽譜のページをめくって行くんです。もちろんそこについているコーヒーをこぼしたしみのあとも、くっきり目にうかんできます』
と語ったそうですが、”真の暗譜”とは、それほどまでに、険しくも厳しい茨の道。
自作・自演、趣味の弾き語りでは、まさかそこまでの道のりは必要ないとしても、今後とも長く歌い続けるためには・・・。
どうしたらいいのか。
願わくば、お肌のしわを、一つ残らず脳みそへ。
今後ますます、いろいろな面で立ちはだかるであろう年齢の壁を、なんとか一つ一つ乗り越えつつ、細く長く歌って行きたい。
改めてそう思う、今日この頃なのでありました。
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