『死ぬことと 生きること』土門拳
土門拳と言えば、一度は耳にしたことのある名前。
”昭和を代表する、硬派な報道カメラマン”
その程度の予備知識しかなかった私でありますが、先日帰省の際、松本市立美術館で催されていた写真展で、初めてその作品を見る機会を得、非常に感銘を受けました。
写真もすなわち”人となり”。
土門拳とは、いかなる人物か・・ということがとても気になって、早速この一冊を読んでみたところ、これが、期待通りの力強さと説得力。
とても面白かったので、ここにご紹介いたします。
例えば、登山家の山野井泰史さんが、山に登る姿を見ていると、そこには登るための、明確な理由というものはなく、”遠い彼方の昔から、刻み込まれた遺伝子の、揺るぐことのない記憶”に突き動かさている・・・
そんな”衝動”にも似た原動力を感じるのですが(これは、以前ブログにも書きましたね、私)、”土門拳”の場合は、それとはある意味対照的(?)。
写真を始めたそもそものきっかけは、生活のため、というきわめて現実的な理由でありながら、その道を歩き始めてみると、意外にも、自分に課せられた”逃れられない使命”のようなものがみつかった。
みつけてしまったその使命を果たすため、社会や人間の持つ生々しい部分と、常に密接に関わりを持ちながら、徹底的に現場主義を貫くことで、リアリズムを追求した。
* 土門さんいうところの”リアリズム写真”とは、”絶対非演出の絶対スナップ” ”真実を愛し、真実を表し、真実を訴える写真”
* 真実と現実とは別のところにあるもので、一つの現象に過ぎない現実(事実)に、意味を与えたものが真実。
プロフェッショナルの写真家とは、”道具代わりに、ギャジッドバッグを肩に現場にゆき、日当がわりに写真代をもらって帰る大工と同じ”(『死ぬことと生きること』の中、”写真家志望の青年へ”より)で、撮りたいものを撮る、美しくも楽しい創作活動ではありえない。
要求されるものに答えるための職人に徹しなければならないのが、プロフェッショナル。
これは、私自身が感じたことなのですが、写真が、”文学や、絵画や、音楽に表せない何か”を表し得るとしたら、それは、きわめて強い”理性と客観性”に起因する。
(土門さん自身、”生活から滲み出る 理屈抜きの感覚的なもの それが視点”と書いていることとは矛盾しますが)
ある瞬間を切り取った”記録の一つ”に過ぎない、という側面を持ちつつも、そこに普遍性を見い出すことができることこそが、写真の持つ大きな力なのかもしれません。
土門さんの、写真家人生を振り返りつつ、具体的な、面白いエピソードがつづられているので、写真に興味のない方でも、一人の人間の生き方、考え方、という点で、共感できる部分が、たくさんあるのではないかと思います。
そうそう。
同書中、『アマチュアは、 なぜ写真が下手か』、ということについても書かれている件があるのですが、ここを読んで私、ちょっと気を良くしてしまいました(^-^)
なぜなら。
私が写真を撮るとき、日ごろ心がけていたことが、実は、プロの手法と同じだったとわかったから!
うしし。
うしし。
思いっきり、自己満足の世界です(笑)。
8月もあとわずか、秋の気配も色濃くなってきましたね。
気持ちの良い空の下、また一週間、元気に過ごしましょう。
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