2014年9月 2日

『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)

先週より、何の拍子か、いよいよ掲題小説を、読み始めてしまいました(!?)。

以前から、本棚に居並ぶ全8巻(その昔、夫が読了)。

その帯が目に入る度、まだまだや、私はまだや、まだまだ読まへんで・・・

と、のらりくらりと、避け続けて来たのに・・・

何がどうして、魔が差したのか?

突如ページを開いてしまったアタシ。

気づけば、あっという間に、一巻終了!

おもしろい!!

おもしろいよ、司馬先生。

びっくりするよ、なんだこれ!

私は、もともと、歴史小説というものが、あまり得意ではなく、これまで敢えて手に取る機会も少なかったのですが、例の耳のごたごたで、テレビもラジオもパソコンも、まとめてNGの日々が長らく続き、その間、頼るは活字のみ。

好きも嫌いもなく、手当たり次第に本を読み漁るうち、気づけば、そのドラマティックな人間模様、自分のルーツを辿るが如き、日本史の世界に、すっかりはまってしまった、というのが事の次第です。

作家も時代も、特に問わないのですが、信長あたりから、江戸を経て、幕末・維新の激動期は、とりわけ、ワクワクドキドキしてしまいますね。

これまでも、多摩つながりから、”新撰組関係の小説や紐解きもの”などはいくつか読みましたが、”佐幕派・尊皇攘夷派”、”幕府と朝廷”、”勤王激化” ”各藩絡み合い”。

その辺りの流れやいきさつは、とても複雑に入り組んでいて、どこかつかみどころがなかったものの、当長編を、たった一巻読んだ時点で、あたかも頭上の雲が晴れていくように、その時代、人々がどのようにして、激変する世の中に呑まれ、巻き込まれていくのか、竜馬という一郷士を通して、とても具体的にイメージが湧いてくるのです。

・・・・っと。

いかんいかん。

つい興奮してしまいました。

まだ、最初の巻を読んだだけなのに、こんな風にブログに書いてしまって、大丈夫?

ちゃんと8巻読み終えられるかな?

いずれにしても、読書にはうれしい季節がやってきましたね。

この秋は、”食欲&弾き語り欲”とともに、じっくりゆっくり、本と向き合う時間も温め、家事の合間に、”日本開国、夜明けを目指し”、竜馬とともに、歩みを進めていきたいと思います。

必然、老眼鏡 リーディンググラスも酷使の予感~♪

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2013年7月25日

”さあさ、お陽気にまいりましょう~”

ここのところ涼しい日が続いていますね。

猛暑の折には、あれほどがつがつと食べていた好物のスイカなのに、途端に手が伸びなくなりました。

ところで、ブログタイトルのフレーズ。

最近、我が家で流行中?!Photo_3

種を明かすと、これ、木内昇さんの『笑い三年、泣き三月。』という小説に出てくるフレーズで、博多出身の芸人、善造なる人物の、万歳芸の掛け声なのです。

木内さんの小説は、これまでにもいくつか読みました。

直木賞を取った『漂砂のうたう』もとてもよかったですが、私は、こちらの方がさらに面白かったです。

戦後のごたごたの中、上野・浅草を舞台に、人が出会い、別れ、それぞれ亡くしたもの、奪われたものを胸にしまいながら、時代を背に、また立ち上がってゆく・・・

ざっくり言えば、そんなお話ですが、木内さんの描く人物は、いつも、とても自然で、リアリティあふれているところがすばらしい。

読み進めていくうちに、自分の中に、その性格や、容姿や、声までが、具体的なイメージとなって浮かび上がってくるようです。

私は、この小説を読めば読むほど、善造なる芸人が、”博多”つながり、ということもあってか、”博多華丸・大吉”の”華丸さん”に重なって、どうにも仕方がなかったです(笑)。

補足ですが、『笑い三年、泣き三月』というのは、”義太夫節の修業で使われる言葉で、人を笑わせる芸は、泣かせる芸より難しい”ということのようです。

もしも機会があったら、是非読んでみてくださいね(^-^)。

そしてこちらは、今朝の我が家のほおずき♪

20130725_2
着々と赤くなり始めています。

なんだかんだで、気づけば、もう7月もあとわずかですものね。

来月は、元気に故郷でお盆を迎えたいな~♪

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2012年2月 6日

『ファインティング寿限無』

なんじゃこりゃ?Photo_2

落語とボクシングの融合?

寿限無、早口言葉の競技会?

答えは・・・

落語家の書いた、小説のタイトルです。

立川談四楼

とあるコラムの連載で知りました。

初めて読んだ時から、随分文章の上手い人だなと思い、興味を持って調べてみると、落語家としての知名度はそこそこなれど(すみません:汗。入門は1970年。)、いくつもの著書を持っている文筆家でもあるとわかり、早速読んでみることに。

一冊読んでみると、これがなかなか面白く、また一冊、と進めていくうちに、いわゆるノウハウものを除いて、小説・エッセイのほとんどを読んでしまいました。

※『師匠!』『一回こっくり』『シャレのち曇り』『寿限無のささやき』『石油ポンプの女』『どうせ曲がった人生さ』『新・大人の粋』などなど。

その多くは、ご自身の”落語家人生のドキュメント色の濃い内容”ではありますが、文章の組み立てやテンポがとても心地よく、さすがは噺家、という印象です(噺家だから、文章がうまい、ということは必ずしも言えないと思いますが)

そんな中で、このファイティング寿限無は、フィクションでありながら、ボクシングの取材もかなりきっちりやられていて、とても力強く、ぐいぐいと引き込まれていく一冊でした。

私は、ボクシングについては、全くの素人ですし、触れる機会もありませんが、それでも、一つの読み物として、とてもよくできていると思います。

そう思った理由の一つには、この小説を、”談志さんが亡くなった後に読んだ”、ということが大きく関係しているのかもしれません。

ボクシングのみならず、落語そのものにも疎い私ですが、なぜか”落語家”の人生にはとても興味があって、”落語家の世界”を垣間見る読み物は、よく手にします。

この談四楼さん、”立川流立ち上げ(=談志一派が落語協会を飛び出す)”のきっかけとなった一件の、需要人物なのですね(^-^)b

ご自身でも著書の中で、度々語られているように、そのことが大きなコンプレックスとなり、それがまた”書く”ということの原動力にも繋がっているのだと思います。

談志さんに、落語についてはほめられたことがないけれど、書いたものについては、”まぁまぁ読める”というようなことを言われ、それが大きな支えになっているのだとか。

先日、談志さんが亡くなった折、テレビで一度だけこの方の語っている姿を観ましたが(生・談四楼♪)、想像していたよりも軽快な、いわゆる落語家風情で、なんだかちょっとほっとしました(もっとおっかない人かと思っていた:汗)

弟子として入門する人は、みな、その師匠に惚れ込んでのこと、というのは、大前提だと思いますが、談四楼さんの惚れ込み具合は、半端ない!

いずれにしても、落語(家)の世界は、摩訶不思議。

決して足を踏み入れたくはないけれど(?)、こっそり覗いてみることは、”人間”を知る、とっかかりの一つには、きっとなるような気がします。

お時間ありましたら、ぜひ(^-^)♪

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2011年8月29日

『死ぬことと 生きること』土門拳

土門拳と言えば、一度は耳にしたことのある名前。901domon_2

”昭和を代表する、硬派な報道カメラマン”

その程度の予備知識しかなかった私でありますが、先日帰省の際、松本市立美術館で催されていた写真展で、初めてその作品を見る機会を得、非常に感銘を受けました。

写真もすなわち”人となり”。

土門拳とは、いかなる人物か・・ということがとても気になって、早速この一冊を読んでみたところ、これが、期待通りの力強さと説得力。

とても面白かったので、ここにご紹介いたします。

例えば、登山家の山野井泰史さんが、山に登る姿を見ていると、そこには登るための、明確な理由というものはなく、”遠い彼方の昔から、刻み込まれた遺伝子の、揺るぐことのない記憶”に突き動かさている・・・

そんな”衝動”にも似た原動力を感じるのですが(これは、以前ブログにも書きましたね、私)、”土門拳”の場合は、それとはある意味対照的(?)。

写真を始めたそもそものきっかけは、生活のため、というきわめて現実的な理由でありながら、その道を歩き始めてみると、意外にも、自分に課せられた”逃れられない使命”のようなものがみつかった。

みつけてしまったその使命を果たすため、社会や人間の持つ生々しい部分と、常に密接に関わりを持ちながら、徹底的に現場主義を貫くことで、リアリズムを追求した。

* 土門さんいうところの”リアリズム写真”とは、”絶対非演出の絶対スナップ” ”真実を愛し、真実を表し、真実を訴える写真”

* 真実と現実とは別のところにあるもので、一つの現象に過ぎない現実(事実)に、意味を与えたものが真実。

プロフェッショナルの写真家とは、”道具代わりに、ギャジッドバッグを肩に現場にゆき、日当がわりに写真代をもらって帰る大工と同じ”(『死ぬことと生きること』の中、”写真家志望の青年へ”より)で、撮りたいものを撮る、美しくも楽しい創作活動ではありえない。

要求されるものに答えるための職人に徹しなければならないのが、プロフェッショナル。

これは、私自身が感じたことなのですが、写真が、”文学や、絵画や、音楽に表せない何か”を表し得るとしたら、それは、きわめて強い”理性と客観性”に起因する。

(土門さん自身、”生活から滲み出る 理屈抜きの感覚的なもの それが視点”と書いていることとは矛盾しますが)

ある瞬間を切り取った”記録の一つ”に過ぎない、という側面を持ちつつも、そこに普遍性を見い出すことができることこそが、写真の持つ大きな力なのかもしれません。

土門さんの、写真家人生を振り返りつつ、具体的な、面白いエピソードがつづられているので、写真に興味のない方でも、一人の人間の生き方、考え方、という点で、共感できる部分が、たくさんあるのではないかと思います。

そうそう。

同書中、『アマチュアは、 なぜ写真が下手か』、ということについても書かれている件があるのですが、ここを読んで私、ちょっと気を良くしてしまいました(^-^)

なぜなら。

私が写真を撮るとき、日ごろ心がけていたことが、実は、プロの手法と同じだったとわかったから!

うしし。

うしし。

思いっきり、自己満足の世界です(笑)。

8月もあとわずか、秋の気配も色濃くなってきましたね。

気持ちの良い空の下、また一週間、元気に過ごしましょう。

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2010年11月 4日

「世の中ついでに生きてたい」

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我が家のベランダに、ちこっと嬉しい出来事が!

3年物のサフランの球根が、ひょっこり芽を出しました(^▽^)♪

いや~、びっくり。

ダメだと諦めていただけに、生きていたことがわかって感激です。

たとえ花は咲かずとも、こうなったら、大事に管理して、なんとか来年につなげましょう~。

さて。Photo

”まくら”はまぁまぁこれくらいに、最近読んだ中で、とりわけおもしろかった一冊をご紹介。

「世の中ついでに生きてたい」古今亭志ん朝 河出書房新社

* 噺家 古今亭志ん朝と、池波正太郎、結城昌治、山藤章二、江國滋など、各界の落語好き著名人10人との対談集。

私はもう、このタイトルだけで、やられてしまった感じです。

”芸は人なり”

志んは、”志んの息子である”ことの葛藤からは常に逃れられなかったのでしょうが、そうしたこととは全然違った次元で、父として、師匠として、志んを、心から尊敬し、愛していたんだなぁ・・ということが、それぞれの対談を通じ、しみじみと伝わってきます。

志んさんの逸話は、いろいろありますね・・(高座で寝てしまったら、お客が”寝かせといてやれ”・・・といったエピソードは本当なんだそう)。

あの噺っぷり、一見ぶっきらぼうで、ときどき何を言ってんだかわからないこともありますが(笑)、こと、言葉に関してはとりわけ厳しかった、ということが語られていて、それがとても印象的でした。

”きたないことを言っちゃいけない”

志んさんの噺は、落語を聞きかじっただけの私でも、”格別”であるとわかります。

その面白さは、聞くものに”考える暇”を与えない。

”本能”をくすぐる・・とでも言いましょうか。

子供のような無邪気さと、可愛らしさと、人間臭さと、決して媚びない、ある種の抑制。

(「黄金餅」の坊さんの、いい加減なお経のくだりなんか、私お腹抱えて笑ってました(^o^))

この本を読むことで、”志ん”の噺家人生を知ると同時に、その向こう側に、”父・志ん”の姿を見、声を聞いている・・・

恐れず言うなら、”人前で何かを演じる”ということにおいて、自分が歌うことと、通じる部分も多く、とても興味深かったです。

秋の夜長・・じっくり淹れたお茶をお供に、是非ご一読を(^-^)♪

富士山も、いよいよ頭に雪を被り始めました。

寒さに負けず、今日も元気に過ごしましょう~♪

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2010年4月27日

「木のいのち 木のこころ <天・地・人>」(西岡常一、小川三夫、塩野米松)

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『法隆寺を1300年守ってきたのは、職人の手から手へ引き継がれてきた技と知恵。それは決して言葉にできない手の記憶。

”最後の宮大工”西岡常一が木と人の育て方を語る<天>の巻。三度追い返されながらも遂に西岡の唯一の内弟子となり、夢を実現させた小川三夫が、宮大工の未来を語る<地>の巻き。さらに小川が主宰するいかるが工舎の若者19人へのインタビュー<人>の巻き。』 (裏表紙より)

全編インタビュー形式の”聞き書き”スタイル。

とてもおもしろかったです。

それぞれ、ご本人の言葉遣いをそのままに書かれた力強い内容で、初めて知る世界でありながら、私たちの日常の暮らし、生きて行く術に置き換えられるだろうことがたくさんありました。

中でも、西岡さんの書かれた、

”煎じて煎じて、煎じて煎じて、行き着くところはかん”

これは、とても印象的な言葉でした。

この”かん”は、”勘がいい”の”かん”じゃなくて”感性・感覚”の”かん”。

その人が、生まれながらに持っている何ものか・・・。

どんな道も、極めて極めて、煎じ詰めて残るものは、結局そこなんですね。

こうしてみると、何事も、最初から結果が見えているようで、ついつい投げ出してしまいそうにも成りますが、そもそも、煎じ詰め切れる人、それ自体が稀なわけで、ほとんどの場合、道半ば、煎じ切る手前で終わるものだと割り切れば、その過程、”煎じる、という行為”そのものに、まずは一生懸命になれるかどうか・・・。

それだけでも、十分意味があるのかな。

・・・と、そんなことを思ったりしました。

なんて。

あら~ん!

夜のブログ、すごく久しぶりに書いたワよ~。

しかも今日、二つ目なんて。

大丈夫かな?

ちゃんと書けたかな?

読み終えたのが嬉しくて、ついつい柄にもなく、宵っ張りモードで張り切ってしまいました。

でも、やっぱりそろそろ眠くなってきたようです・・・(=o=)

睡眠不足は、お肌の大敵。

ムリの効かないお年頃。

そろそろお休みモードに入りましょうね。

みなさま今宵も良い夢を~moon1

そして時々寝言もね~moon3

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2008年5月21日

『水になった村』

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写真家・映画監督の大西暢夫さんが、15年にわたって通い、撮り続けた、旧徳山村とそこに暮らす、ジジババの生き様を追った記録本。

写真集でも、エッセイでもなく、敢えて言うならドキュメンタリー。

でもそれともちょっと違う、とても濃密な一冊。

この本を読むまで、私は、徳山村のことも、徳山ダムのことも全く知りませんでした。

そして、読んだ今、これまでにない、自分の中の感情が沸々と何かを発しているのがわかります。

それは、決して激しいものでも熱いものでないけれど、とても確かなもの。

ダムに沈んだ村は、徳山の他にもいくつもあり、これは”その一例に過ぎない”と片付けてしまうこともできますが、”自治体規模”で、1500余の人々の暮らしが、山や川とともに、大きく形を変えていったその現実を知ることは、決して無駄ではないと感じます。

徳山ダム建設のための調査開始が1957年。

完成が2007年。

この50年は、長かったのか、ダムは本当に必要だったのか・・。

いずれにしても、その50年の間に、日本という国そのものが、さまざまな意味において、舵取る方向を見極めきれないまま、迷いながら、探りながら進んできた、その道筋の一端をえぐり出しているのかもしれません。

この本には、”ダム建設や廃村の時系列的な経緯”、”地形・地図”のようなものが記されていないため、それらが頭に入っていない私には、少々読みにくい部分もありました。

ページを行ったり来たりしながら、最後になって、ようやく、その景色が一つになったようなところがあります。

でも、それこそが、大西さんの(意図せぬ?)意思だったのではないか。

大西さんは、決して、ダムの是非を問いたかったわけではなく、ましてや、村の悲劇をドラマティックに仕立てたかったわけでもなく、ただただ、そこにあった、ジジババの暮らしと、その暮らしが培ってきた歴史を、自分の目と身体と心を通して、誰かに伝えたかった。

東京から500キロの距離、バイクに乗って、15年もの歳月、ジジババに会いたい、村の懐に触れたい、その一心で、通い続けたこの写真家。

私は、今とっても興味が湧いています。

いずれかの機会を見つけて、ご本人に会えたらいいなぁ・・・。

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2008年4月15日

森の『いろいろ事情がありまして』

041508_2 私のお風呂タイムの友。

愛読書の一つであるこの本のプロローグには

”木がたくさん生えている眺めが「森」なのではなく、無数の生き物のかかわりあいこそが「森」なのです”

・・・こんな一節が記されています。

軽井沢を拠点に、野生動植物の調査研究を行う専門グループ ”ピッキオ”。

その”ピッキオ”が中心となって、無数の生物が複雑に絡み合う、森の四季折々の生態を、【野草】や【鳥】や、【蛙】や【昆虫】、それぞれの個性・能力・経歴にスポットを当て、それぞれの立場に立って書かれた(?)、とても楽しい一冊です。

私は、この本で、初めて、カラマツに花が咲くことを知りました。

アリには、300近い種類がいて、軽井沢の森だけでも、30種類が生息していることを知りました。

私の苗字と親戚のような ”シシウド”。

この”シシウド”は、多年草でありながら、あの花火にも似た”花の塊(花序)”を咲かすのは、人生最後の一回だけ。

その一回で、子孫を残すため、長い月日をかけて作り上げられた受粉の仕組みには、感動すら覚えます。

そんな、多種多様な”森の事情”が、写真とともに、興味深く紹介されていますが、中でも最も心惹かれたもの。

それは ”タネ”の世界です。

自分で移動できない植物にとって、タネは大切な子孫。

風に飛ばされやすいように、動物の毛にくっついて運ばれやすいように、動物に食べられ、糞となって移動しやすいように・・・・。

あの手この手で ”かわいいタネには旅をさせよ” とこらされた巧妙な工夫。

そうした工夫が、タネそれぞれの個性となって、中には、ボタンやビーズのように美しいものもあり、チョウセンゴミシの種子など、その色といい形といい、タネにしておくのはもったいないくらいです。

こんな小さなタネ一つを取ってみても、その後ろ側には、生命の連鎖に果たす、大切な役割がちゃんとある。

知られざるいくつもの営みが複雑に絡み合うことで、”森”は動いているのですね。

この本からは、一年単位の四季にはおさまらない、何十年・何百年という、大きな時の流れの中に生き続けるダイナミックな森の姿を、繊細かつユニークな視点から、伺い知ることができます。

信濃毎日新聞社から1600円。

機会がありましたら是非!

ところで。

どうして急にこの本を紹介したくなったか、といいますと・・。

それは、先日、Cとせさんのブログで とても素敵な”タネ”の話を読んだからなのです。

そして、そのCとせさんも、なんでも他の方の日記を読んでそのテーマを書かれたのだとか。

そうして考えると、これも、立派な連鎖の一つ。

誰かの言葉に、気づかされたり、励まされたり。

私たち人間だって、ささやかだけれど意味のある、いくつもの糸が繋がってこそ、生きていかれるものなのですよね。

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2008年2月16日

ないしょ。

Cとせさんのブログで、詩人の東君平さんの記事を読みました。

私も、一冊だけですが、『心のボタン』という詩集を持っています。

”詩集って、一度読んだだけではもったいないね。”

本当にそうだな、と思い、久しぶりに読み返してみました。

そしたら。

今のこころにとても良く似合う一篇がみつかりました。

    ないしょ

    よいけしきは
    すきなひとに みせたい

    よいしらせは
    すきなひとに しらせたい

    よいものは
    すきなひとに おくりたい

    よいおんがくは
    すきなひとに きかせたい

    よいほんは
    すきなひとに よませたい

    よいひとは
    だれにも おしえない

年を重ねるたびに、少しずつ増えていく すきなひと。

歌を歌うたびに、少しずつ増えていく よいひと。

だれにもおしえたくないけど・・・

だれかにおしえたい。

乙女心はフクザツです(笑)。

どうぞよい週末を♪

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2008年2月 8日

『犬は神様』

・・・という、エッセイを読みました。0208_3

著者は、銅版画家の山本容子さん。

山本さんが、子供の頃から飼った5頭の犬たちとのエピソードを、自分の人生に絡めながら振り返る、という内容で、80ページ程度の短編のため、あっという間に読めてしまいます。

淡々と綴られているだけに、ちょっとジーンとする場面もあって、とても面白かったです。

”犬”と言えば、私自身は、住宅事情等々で、これまで一度も飼ったことはありませんが、夫の実家には、かつて牡の柴犬がいました。

名前は、竜(りゅう)といいます。

13歳まで生きました。

・・・と言っても、夫の大学時代に死んでしまったので、私は会った事がありません。

ドテっ!

でも、何度も話題に上ったり、写真を見ているうちに、すっかり自分も、一緒に飼っていたような、昔から知っているような、そんな気になっているのです。

夫は、ことあるごとに ”自分に一番懐いていた”・・と自慢しますが、義母の話によると、今は亡きおじいさんのことが一番好きだったそうで(やっぱりね(笑))、そんな大好きなおじいさんが、老犬になった”りゅう”のためにと、こしらえてくれた新しい犬小屋。

その犬小屋が完成した日。

よろよろとおぼつかない足取りで、古い小屋から連れて行かれる途中、ほっとしたように、息を引き取ったのだそうです。

いつだったか、そんな”りゅう”の命日に、たまたま夫の実家に二人で帰っていたことがありました。

せっかくだからと、好きだったハムや魚をお皿に乗せて、”りゅう”の眠っている”竜の髭(これは植物)”の根元にお参りをしました。

するとその夜のこと。

自分たちの部屋でくつろいでいると、身体のすぐ近くで、今まで一度も聞いたことのない、ピシピシっ、という、とても大きな音がして、私はなぜだかそのとき咄嗟に ”りゅうが来た!”と感じました。

そしたら、なんと夫も同じことを思っていたようで、二人でびっくりしてしてしまいました。

不思議なことがあるものです。

今となって見れば、ただの思い過ごしだったのかもしれません。

でも、私たちが帰ったことを”りゅう”が喜んで、近くまで遊びに来てくれたのかもしれないと思うと、私も、家族の一人として、”りゅう”が受け入れてくれたような気がして、ちょっと嬉しい気持ちになるのです。

さて。

明日からの三連休、そんな信州へまたまた帰省します。

ようやく、かの”エアロバイク”を実家へ運び入れます。

気づけば、富士山に向って、既に100キロ近く漕いでしまった私です^-^;;。

キコキコ~。

ウォーミングアップは万全です。

ちょっと重いけど、エンストしないよう、気をつけて行ってきます。

天気が崩れるみたいですがなんのその。

どうぞよい週末をお過ごしください!

*たった今、ひろあさんのブログを見て、絵文字が使えるようになっていることを発見しました。
これは使ってみなければ~!!

ということで、noodlespariceballbottlefish 
早速、好きなもの・・・入れてみました。うはは。

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